ひねくれていると思われるかもしれませんが、私は、SNSや掲示板など、ネット上で誰ともしれない人の「ご冥福をお祈りします」という弔意を示す言葉を見るたびに違和感を覚えます。
人が亡くなるような大きな事故や事件が起こると、何かしなければならない、つらい思いをしている人に何かしてあげたいと思うのは、人間当然かもしれませんが、かけがえのない気持ちです。
しかしほとんどの場合、多くの人にとってできることはあまりないでしょう。
だから人は、その気持だけでも示すことで、相手に寄り添おうとします。
それは非常に人間的な行いであり、素晴らしいことです。
しかし近年、なにか重大な事件等の後にはネット上に「ご冥福をお祈りします」「お悔やみ申し上げます」などの弔意の言葉が溢れます。
その示された気持ちは本物かもしれません。
しかし私は、それを見るたびに違和感を覚えるのです。
感情的にだけでなく、制度など現実的な部分でも、できることはあると思います。
大きな事件を目の当たりにした時にできること
京都アニメーション制作アニメ 『AIR』の聖地を歩きながら考えたこと
『AIR』はVisualArt’s/Key原作のPCゲームで、2005年に京都アニメーションによってアニメ化された作品です。
私はこの作品には、個人的な思い入れをずっと持っていました。
私は学校を卒業して久しいですが、毎年、学校の夏休みが始まる少し前の時期になると『AIR』を観て、これから来る本格的な夏の季節への想いを膨らませていました。
今年も、7月の中頃から観始めていたのですが、その矢先でした。
京都アニメーション第1スタジオにおける放火事件が起きました。
本当にショックな事件でした。
このことに関して、私は未だに感情の整理ができていませんし、なにより事件の全容が判明していません。
そのため細かいことはこの場では述べません。
しかし、」私は気持ちがかき乱され、居ても立っても居られず取った行動は、舞台となったとされる土地に行くことでした。
京都アニメーション制作のアニメ『AIR』の聖地に行ってきました。 和歌山県美浜町と兵庫県香住町に行きましたが、今回は和歌山県美浜町です。 [sitecard subtitle=関連記事 url=https://fumihazush[…]
“聖地巡礼”の心理
私は旅行は好きですが、いわゆる“聖地巡礼”ということはあまりしません。
少なくともあまり重きをおいていません。
ただ一方で、旅行していて町や自然の風景の中を歩いていると、ふと「もし自分がここで暮らしていたらどういうふうに育っていただろう」と思うことがあります。
別の人生、つまり、“虚構の物語”が頭を過るのですが、それはとても快いことです。
なので、“聖地巡礼”で物語世界に浸りたいという気持ちは理解できます。
その土地で、ドラマやアニメなどの作品の雰囲気や匂いを感じながら過ごす時間は楽しいものです。
しかし、今回の私の旅行は、純粋にそれを求めることはできませんでした。
なぜならやはり、あの事件があったからです。
そのため、今回は『AIR』という作品世界の空気を求めるのではなく、京都アニメーションがどういうふうにその町を見て、作品を作り上げていったかという視点で町を歩きました。
人は「創る」ことができる存在である
旅行では、和歌山県美浜町と兵庫県香住町を歩いてきました。
どちらも小さな町ですが、海辺のきれいな町でした。
私は素人ですが、その素朴で美しい町を元に、1つの物語に作り上げるクリエイターとしてのその力には、心の底から感嘆しました。
それだけに、この度のような事件が起こってしまったのが非常に悲しいです。
歩いているときも、大きな喪失感を感じながら歩きました。
ですが、旅行を終え帰ってくると、少し気持ちに整理がついていました。
その理由を自分なりに考えてみました。
私はクリエイターではありませんし、アニメも観るだけで、制作に関しては全くの素人です。
しかし、アニメ舞台となった土地を歩き、作品のワンシーンの背景と同じ風景を目の前にすると、ただ一ファンとして楽しいというだけでなく、別の感情を覚えました。
それは「この風景がこうやって作品になったのだな」ということです。
「こうやって」というのは、アニメの専門的な制作過程のことではありません。
「ああ、そこにドラマを見出したのかなと感じた」ということです。
つまり、私が先ほど言った「虚構の物語」が浮かんでくることを実感したのです。
もちろん、私が京アニのクリエイターのように「風景から物語を作った」のではありません。
作品から逆算して思い浮かべただけです。
しかし、そう思うのはワンシーンの風景だけではありません。
“聖地”に着いてわかるのは、背景のモデルとなった風景は、広々とした海などを除けば、そのほとんどが「ありきたりな電柱」や「何気ない路地」です。
もし、作品に使用されていることを知らなければ、何も感じることなく通り過ぎてしまうような風景です。
ですが、その地点だけでなく、町全体を歩いていると、その何気ない風景の中に、なにか人の生活の、なにか物語の、息遣いを感じるのです。
それは私が“聖地巡礼”とは関係なしに、旅行などで町や自然の中を歩いていると思い浮かぶ「別の人生の物語」だと感じたのです。
もちろん私のものはレベルが低く、京アニのような一級のクリエイターと比較するのはおこがましいことです。
それでも、その時、これからも「人は物語を創っていける」「人はなにかを生み出していける」という強い実感を感じたのです。
一消費者として私にできること
私は今回の事件に非常に大きなショックを受け、悲しみを抱いています。
しかし、私は一ファン、一消費者に過ぎません。
ですので、私の悲しみなどは、関係者のそれとは比ぶべくもありません。
しかしそれでも、なにかしたい、という思いを抱きました。
その思いの1つが今回の“聖地巡礼”だったと思います。
しかし、さらにその中で思い浮かんだことがあります。
それは、失われたものを嘆くだけではなく、生み出されたもの・生み出していくものを最大限に尊重していくということだと思いました。
簡単に言うと、作品を楽しむということです。
もちろん、これは距離の離れた一消費者だからできることで、そんな気持ちになれないほど強い悲しみの中にいる人もいると思います。
その悲しみは、私なんかには察するに余りあるものです。
しかし、私が抱いている喪失感は、もしかしたら誰かと共有しているかもしれないかもしれません。
喪失感に負けないためには作品を楽しみ、愛すること、そしてそれの楽しさや愛を表明することこそが、一消費者するべきことなのだと思うのです。
つまり、作られた作品とその目的を最大限に尊重することこそが、それを創った方々に敬意を示すことだと考えるのです。
私は京アニが作るアニメが大好きです。
『AIR』が1番衝撃を受けましたが、同じVisualArt’s/Key原作の『CLANNAD』も大好きですし、現在の多くのアニメ好きと同じように『涼宮ハルヒの憂鬱』が、私がアニメを真剣に見るきっかけとなりました。
以上の作品を始め、京アニの作品はどれも印象的で、それについて語るのは非常な楽しみでした。
ですが今後は、事件を目の当たりにした人々、少なくとも私自身においては、ただ単純に「楽しい」だけでは語ることができなくなってしまったと思います。
しかしそれでも、創られたもの、そして今後創られるものをできる限り楽しみ、感動すること、場合によっては批判さえすることが、一消費者の私にできることだと思うのです。
ネット上での1個人の弔意の表明は空虚に感じる
弔意を示すだけで終わってはいけない
私はネット上に弔意を書き込むのはあまり適切だとは考えていません。
ネット上で見る、誰が書いたかわからない「ご冥福をお祈りします」といった様な言葉からは、どこか空虚な印象を受けるからです。
面識があるなど、親しい人間ならともかく、私を含めどこの誰ともしれない人間がそれを示すにはあまりに距離がある気がするのです。
今回の京アニの事件でもそれを頻繁に目にしました。
もちろん、私にもどの様な形で示すかはともかく「お悔やみの気持ち」はあります。
しかし、その弔意を示すだけで終わって良いのかと思うのです。
もし、それを直接的な言葉で示しても、それが本当につらい思いをした方、未だ深い悲しみの只中にいる方に届くとは思えないのです。
私と当事者の方とはあらゆる意味で距離が離れているからです。
それでも、なにか共有できるものがあるとすれば、創られた作品です。
私は先ほど示したように、これまで京アニが作った素晴らしい作品を享受させていただいた一消費者、一個人としてできることは、その作品の素晴らしさや感じたことを表現し、少しでも多くの人に伝えることなのではと思っています。
もちろん、これからもです。
それが正しいかどうかはわかりませんが、私はそう考えています。
今回、いわゆる聖地に行き、その記事を書いたのはそういった想いもあるのです。
その他の事件でも、法や制度に関わり、創ることができる。
京アニの事件においては、それが細いものだとしても、作品で製作者と一消費者とがつながっています。
ただ空虚な言葉で、悲しみや弔意を示すのではなく、その作品もって気持ちを示すことができるのでは、というのがここまでの私の考えです。
ですが、その他の大きな事件において、作品のようなものはありません。
なので、できることなど全くと言っていいほど無いように思います。
しかし、確かに起こってしまったことには何もできないかもしれませんが、起こるかもしれないことには関わることができます。
それは法律や制度です。
日本は民主主義の国なので、国民一人ひとりが国のあり方を決めていくことができます。
つまり法や制度を作るのは私たち国民なのです。
そして、悲しい事件が起こった場合、法や制度に不備があることが大きな要因となっている場合があります。
または、世の中が変化し、それまで問題のなかった法や制度古くなってしまったため起こる不幸もあります。
その不備の生じた法律や制度を正しく修正していくことができるのは国民である私たち一人一人なのです。
ここまでは、主に感情的なことについて述べてきましたが、何か不幸なことが起こってしまった時、今後そんなことが起こらないよう現実的に、実行力を持って世の中を変えていけるのは私たち国民であるということはしっかりと理解しておくべきです。
ただ、今の国会運営や選挙制度などを見ると、うまく働いていないように見え、無関心になってしまう人、絶望してしまう人もいるでしょう。
また、変えていくことができるとしても、その進みがあまりに遅いため、自分のこととして考えられないかもしれません。
しかしそれでも、根気強く考え、変えていかなければいけないと思います。
今生きている私たちのためだけでなく、私たちの子どもなど将来世代のために、今から少しずつでも進めていかなければなりません。
それはつまり、「創っていく」ということです。
創られたものは、それを創った人物がいなくなった後でも残り、作用します。
そしてそれは、残された人たちにとって良いもの、生きていく希望となるものでなければなりません。
それはなにか作品を創り、残すことにも通じると感じています。
おわりに
生きていると、人や世間に大きな衝撃と悲しみをもたらす事件が起こります。
これからも起こるでしょう。
今回の京アニの事件は正にその様な出来事で、私を含め多くの人に衝撃を与えました。
1消費者である私でさえ、未だに大きな喪失感を感じています。
しかし、その喪失感に負けないために、なにより作品を作った方々に敬意を示すためにするべきことは、作品を楽しみ、伝えることだと私は考えています。
そしてまた、私達自身も過去や現在を反省しつつ良いものを創り、後世へ残さなければなりません。
それは作品とは違うものかもしれませんが、多くのクリエイターが時には命をかけて創っているもののように、受け取った人の希望になると思うのです。