ルーベンスの『ローマの慈愛』を「キモい」という現代の感覚で批判するべきではない。

  • 2019年1月26日
  • 2020年2月21日
  • 日々雑感
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先日、上野で開催されていたルーベンス展に展示されていた『ローマの慈愛』という作品が、フェミニスト的観点から「キモい」と言われていることが話題になりました。

(※この記事は『ローマの慈愛』やルーベンスの作品論ではないのでご了承ください)

ルーベンスの『ローマの慈愛』が「キモい」と言われ、炎上しているようです。

「キモい」という現代の感覚で過去の作品を批判してはいけない

ルーベンス展に行ってきました。

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そして当該作品である『ローマの慈愛』は私にとっても非常に印象的でした。

印象に残った理由の1つに、現代人である私が持つセクシャリティと大きく違うからというものがあることは否定できません。

つまりこの『ローマの慈愛』という作品に対しては、私自身もある種の「気持ち悪さ」を感じたと言わざるを得ません。

現代の日本で、娘が父親に母乳をあたえることはないでしょうし、ましてやおっぱいから直接ということは近親相姦さえ想起させます。

しかし当然、作品を観てそう感じても、当時と感性が異なることや母乳の意味のなど、歴史・宗教、さらには「人間の本質とは?」といったことに思いを巡らせます。

そしてそのように多様な視点で観て、考えることが普通のことであると私は思います。

しかしながら、少なくともSNS上で大きな共感を呼んだと話題になるほど多くの人が、歴史や宗教など複眼的な目で捉えず、自分の「キモい」という感性だけを表明し、作品を批判している現状があります。

このように、現代の感覚で過去の作品を批判すること、しかもなんのためらいもなく批判できてしまうことは、非常に良くないことだと私は感じます。

その環境で得た情報をすぐに「内面化」するべきではない

私は最近、「内面化」を短絡的に、そして強固にしてしまう人が多いように感じています。

内面化とは、自己の外部の考えに影響されて、自己の内部に落とし込んで、理性的にだけでなく感情的にも、更には生理的にも自分のものとすることです。

言い換えれば、自分で自分を洗脳することです。

極端な例えをすれば、次のようなことです。

道端に落ちているゴミを拾い、ゴミ箱などちゃんとした場所に捨てることは良いことです。

ですがある時から法律により「道端のゴミを拾ってゴミ箱に捨てるのは犯罪である」とされたとします。

すると普通の人は「なんでだ。落ちているゴミをちゃんとゴミ箱に捨てるのは道がきれいになって良いことだろう」と考えるでしょう。

しかし一部の人は「法律で決まっているんだからゴミをちゃんと捨てるのは良くないことだ」と考えるようになります。

この後者のようなことが「内面化」です。

つまり法律・制度・環境(=自分の外部の考え)で決められると、すぐにそれを自分の心の中でも正しいことだと考えるようになってしまう(=内面化してしまう)のです。

そうして内面化してしまうと徐々に、最初は「法律で決まっているから良くないんだ」とある程度論理的に判断していたのが、怒りや嫌悪感を抱くといったように感情にも影響していき、さらには涙を流したり、吐き気すら催すようにもなり、生理的な面にも影響を受けてしまいます。

こういった人達にとっては、その法律がどういった背景で、なぜ作られたのかという話は通じなくなってしまいます。

「ゴミ捨て禁止法」という荒唐無稽な例はともかく、私はそのように簡単に内面化してしまう人が最近増えた、またはネット上でよく目にするようになったと感じています。

そして、「キモい」というのは、正に感情的で生理的な言葉です

最近、ある物事に対してそれまでなにも気にしていなかった人が、どこかでそれを知って以来、ある時から突然怒り狂い、涙を流すといった姿をメディアで目にしますが、私はこの光景にこそ異様なものを感じます。

『ローマの慈愛』に対する批判も同じです。

つまり、ルーベンスの『ローマの慈愛』を「キモい」と感じたと表明し、その作品の背景など目にもくれず、強烈に感情的な批判をする人に対し、それこそ私は「異常だ」「キモい」と感じます。

「内面化」が急激に進行する現代の病理

ですが、ただ「キモい」で終わらせては私も同レベルですし、それだけでなくもっと深刻なものを感じています。

なぜ、「こんなに視野が狭く狭量なものの捉え方をして、それを堂々と世間に表明できてしまうのか」と思うのです。

そして、そのような人が決して少数ではないと見える現状に、日本の教育制度や社会、そしてその下にいる人間の劣化に危機感を覚えます。

ですので、その原因を少し考えてみたところ、以下の3つが思い浮かびました。

1.文脈を読む力の欠如
2.決断主義的な価値観の選択
3.その価値観のSNSでの正当化(権威化)

1の「文脈を読む力」は国語力と言い換えてもいいと思います。

一部分だけでなく、全体の流れの中を捉え思考する力を養うのが国語ですが、その力がかなり落ちています。

それはまた「国語や文系の軽視」といった減少からも読み取れると思います。

2の「決断主義的な価値観の選択」と3の「その価値観のSNSでの正当化(権威化)」はネット的な現象だと思います。

もはや錆びついた話かもしれませんが、ニーチェの「神は死んだ」以来、人はそれまで持っていた自身(の生きる意味)に対する支えを失います。

信じるべき価値観が崩壊したとも言えますが、それ以来、その支えや価値観は神や宗教から与えられるものではなく、自分で見つけ、選び取るものになりました。

時代は流れ、たとえかつてのように絶対的なものでなく、相対化されてしまった宗教であっても様々なものから自分が主体的に選び取れるようになりました。

また、宗教以外のもの、例えば文化やお金を自分の支えとなる価値とすることもできるようになりました。

そして、ネットが普及し選び取ることのできる価値観の選択肢は無限とも言えるほどに増えます。

しかしそこで生ずる問題として、2の「決断主義的な価値観の選択」が出てきます。

それまでは選択肢が増えたと言っても、いくつかの中からその比較の中で、自分が良いと思ったものを選べました。

しかしネット発達により選択肢があまりにも増えすぎたせいで、「どれが良いか」という判断が困難になります。

どれも良さそうにも、そうでなさそうにも見えてしまいますし、比較ばかりしていたら、あまりにも量が多すぎ疲れ切ってしまいます。

それでも何か、人は自分の支えとなるものを選ばなければなりません。

そんな状況で人が取る行動は、「比較なんかやめて、とりあえず自分が正しい信じると思えるものを選び取るという決断をする」というものです。

しかしこうすると、信じられるものを選ぶのではなく、選び取ったものを信じるしかなくなります。

「信じたから決断する」のではなく「決断したからには信じなければならない」となるのです。

別の言い方をすれば、主体的な判断や選択をしなくなるということです。

片手で数えられるくらいの数の価値観や考え方であったら、それを比較してその中から選び取り、時には相反するがどちらも正しく見えるものの間で悩むのも人間らしいと思います。

しかし、比較対象があまりにも多く、その中で悩むとなると心が病んでしまいます。
悩むことが人間らしいとは言ってられなくなります。

そうした中で選んだ1つの価値観は、それがある意味で正しくとも、多面的な世界のたった1面の正しさを表しているに過ぎません。

こうして視野の狭い、狭量な考えが人の中に根付いてしまうのです。

ただそこでは終わりません。

人は3の「その価値観のSNSでの正当化(権威化)」をしてしまいます。

「それが正しい、正しくないにかかわらず、価値観を選び取らなければならない」と言いましたが、やはり人は自分が選んで(一応でも)信じているものが正しくあってほしいのです。

そこですることは、選び取ってしまった価値観の補強です。

もしネットがなければ、古くから続く歴史や文化の中に、自分の価値観の正当性を求めるたと思います。

人でなくても、国の正当性が神話や歴史によって支えられていることを想像していただければと思います。

ですが現在は、その価値観や考え方の正しさや正当性を縦の深さ(=歴史)ではなく、横のつながりに求めがちです。

「横のつながり」とは、つまりSNSです。

もちろんかつての、そして現在の宗教も横のつながりによってその正当性が担保されているということはあります。

ですから信者の多さも重要でした。

それでもその人のつながりや多さは、縦の深さとともに作られていきます。

また、どうしても目についてしまう他の価値観との比較の中で、他の価値観への寛容さも育まれることもあります。(宗教において必ずしもそうではない歴史的事実もありますが。)

しかしSNSを利用すれば、他の価値観に目が行く前に、同じ価値観を持つ人や集団を探し出せてしまいます。

そして批判があったとしても、ブロックすることができてしまいます。

他の考えをブロックすることは精神衛生性的には良いかもしれませんが、自己批判の精神や他者に対する寛容性を養うことができなくなってしまいます。

そしてそのまま、自分と自分が選び取った価値観が絶対に正しいと誤った認識を持ったままになり、しかもそれをそのSNSを使って誰もが全世界に発信してしまうのです。

さらに、批判をブロックしたままのSNSでは賛同者の声ばかりが自分のもとに届き、一面的な正しさしかない価値観、場合によっては誤った価値観を絶対のものと補強強化してしまう、つまりその人の中で「正当化と権威化」がされてしまうということです。

上の話を引き継げば「一応信じている」の「一応」を外し、内面化してしまうと言えます。

このような状況下では多様で複眼的な視点で物事を捉え、考えるなどできるはずもなく、これは現代の病理だと私は思います。

結論 解決は難しそうだが・・・

このことに対する解決方法は私には思い浮かびません。

残念ながら、現在の社会状況や技術環境、そして人間というのはこういうものだと思うしかありません。

せめて、このようなことを認識することが問題の緩和への第一歩になればと思う程度です。

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