私はスタジオジブリの映画『耳をすませば』が大好きです。
前回は去年の夏(2018年7月)に浜松で近藤喜文展を見に行った際に考えたことを記事にしました。
今回はその続きで、『耳をすませば』の舞台のモデルとなり、いわゆる「聖地」とされる東京都の多摩地域の画像をたくさん紹介いたします。
またそれに加えて実際にモデルのなったのか真偽不明な場所などについても私なりの知識や見解を、そしてその風景から考える作品の考察も記していきたいと思います。
去年の夏(2018年7月)、私は浜松で開催されていた近藤喜文展に行ってきました。 近藤喜文さんはジブリ映画『耳をすませば』の監督です。 この記事を書いている時点(2019年1月7日)で、今週の金曜日にスタジオジブリの『耳をすませば[…]
『耳をすませば』の時代の風景と私
公開当時の私
公開された1995年、私は10歳の小学生でした。
社会的にはバブルの名残も消え、阪神大震災やオウムの一連の事件が起こった年です。
そして、今年で平成も終わりますが、麻原彰晃の死刑執行など、1995年の余波はいまだに続いているという感覚があります。
そのような時代を絡めた評論めいたことは次回に取っておくとして、今回は聖地である多摩地域の風景と当時私が個人的に感じたことをメインにさせていただきたいと思います。
私はこの作品を映画館で観ることはなかったのですが、テレビCMに非常に惹きつけられたことを覚えています。
私を惹きつけたのは、東京都心部の遠景の場面です。
私にとってそんな東京のビル群や街並みは原風景であり、今も東京の風景が大好きなのです。
私はは東京在住で、小さい頃はこのビル群の間近に住んでいました。
なので東京の街に対する想いは、憧れというより郷愁に近いものがあると感じています。
『耳をすませば』より少し前のトレンディドラマやアニメ『CITY HUNTER』などの雰囲気にも感じるものがあります。
実際『耳をすませば』もトレンディドラマの延長にあるという解釈も成り立つのではないかと思います。
『耳をすませば』のオープニングの東京の夜景とクライマックスの「秘密の場所」からの東京から朝日が登る場面が私の心を捉えました。(前年の高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』のエンディングも、地域的に近い場所からの風景です)
また公開後少し経って、同級生の女の子から『耳をすませば』の登場キャラクターである「男爵」が描かれた便箋のラブレターを貰ったなどという淡い思い出もよみがえってきます。
私が映画を見たのはTV初回放送時で、東京のビル群の場面、そして舞台となった多摩の風景も私に深い印象を与えました。
しかし中学生の恋愛という物語は、小学生の私にはまだ実感を持って観ることはできなかったと記憶しています。
初めて舞台となった土地へ。聖蹟桜ヶ丘の風景。
私が初めて映画のモデルとなった土地である聖蹟桜ヶ丘に行ったのは中学2年生のときで、当時私が住んでいた地域からは、都心のビル群を挟んで東京の反対側でした。
中学生の私にとってはちょっとした旅行でした。
そして当時はインターネットが今ほど普及しておらず、私もほとんど使う機会も場所もなかったので、作品のモデルとなった場所を調べる方法は、映画の場面をもとに地図や多摩の街並みが写った写真からおおよその場所を推測したり、地図の等高線読み定規を使って都心部が見渡せるを探したりするというものでした。
結果、2回目の多摩への散策で見つけることができました。
血眼になって探した地図上の「いろは坂」の形が決め手でした。
以下、聖蹟桜ヶ丘駅からいろは坂、ロータリー、団地の風景の画像です。
これらの写真は2016年に撮ったものです。
曇っていたため画像の色調が全体的にくすんでいるのが残念ですが、多摩地域、特に『耳をすませば』のもモデルとなった、京王線で多摩川を渡った聖蹟桜ヶ丘を含むこの地域は、丘陵地帯で高低差があり、都心部より緑も多く爽やかな空気が漂います。
また戦後に開発・造成された地域であり、その緑の中に上の画像の昭和の団地のような既にノスタルジーを喚起する建物もある一方で、まだできたばかりの真新しい建物や広々とした公園が点在しており、都心とは異なる独特で開放的な風景が広がっています。
『耳をすませば』以外にも、この近辺をロケ地や舞台にした作品が実写・アニメを問わずたくさんあるので、そういった魅力を持った「絵になる」風景なのではないかと思います。
私はこの土地の風景が大好きで、聖地巡礼に訪れる多くの耳すまファンも同じように思っているのではないでしょうか。
『耳をすませば』のモデルとなったいくつかの場所についての誤解と考察
ロケ地について、それにまつわるネットなどではあまり指摘されていない、私が誤解されていると思うことや、私が調べ実際この土地を歩いて見たことを元に、自分なりの考えを提示しようと思います。
必ずしもソースがあるわけではないのですが、そこはご容赦ください。
秘密の場所
まず大前提として覚えておいていただきたいのが、この作品は聖蹟桜ヶ丘を始めとして多くの実際の場所をロケハンして、そこをモデルに描かれていることは間違いないのですが、位置関係など必ずしも実際の土地をそのまま描いているわけではないということです。
作品内で現実の風景をそのまま写し取ったように背景が描かれていますが、だからといって作品の設定と現実の風景がすべて一致していると考えるのは間違いなのです。
現実そのものが描かれているのだとしたら、雫の住む団地から地球屋に行くのに電車に乗るというのはありえません。
あくまで創作なのです。
しかし、ネットを見る限りそのように考え、つまり現実と混同して語っていいる方も多く、そのことで誤解が生まれています。
まず「秘密の場所」についてです。
「秘密の場所」は作品のラスト、東京の都心を臨む朝日の中で雫と聖司が愛を将来の愛を約束する場所のことで、最も美しいシーンです。
ですから、多くのファンがこの場所を探そうと聖蹟桜ヶ丘を訪れました。
そしていつからか、先ほど画像でも挙げた聖蹟桜ヶ丘駅からいろは坂を登った「桜ヶ丘」と呼ばれる一帯を、ファンが「耳丘」呼び始め、その一部を「秘密の場所」と考えるようになりました。
そして一時期、ファンの交流ノートが置かれていたようです。(※その場所は当時は空き地でしたが、もともと私有地であり、現在は個人の家が立ってるので、もうそこに立ち入ることはできません。もし行った場合にも、住民の迷惑になるような行為は絶対にやめてください。)
ですが、この「『秘密の場所=桜ヶ丘』説」は全くの誤解・間違いだと私は考えます。
下の画像は、一部のファンにより「秘密の場所」とされる場所の丘の下からの画像です。
映画をつぶさに見ていればこの画像で分かると思いますが、ここは「秘密の場所」ではなく、強いて言うなら地球屋か図書館があった場所です。
オープニングに似たような風景が映るので、確認していただけたらと思います。
では本当の秘密の場所はどこなのか?
結論から言ってしまえば、私は無いと考えています。
正確に言えば、ロケハンした場所を様々に組み合わせ、そこに創作の場所を加えたものだと考えています。
まず「創作の場所」とはどういうことかというと、作品のラストシーンの「秘密の場所」にあるような「足元に石垣があり、あの高さがあり、なんの遮蔽物もなく都心までキレイに見渡せる場所」は、おそらく無いということです。
雫と聖司が立っていたあの場所は、作者が実際の風景や場所と想像を組み合わせて描いたもので、作品の中にしかない場所だと考えているのです。
ですが「組み合わされた場所」は現実にいくつか存在すると思います。
1つは連光寺給水所です。
現在画像はないので、検索していただいて作品で描かれたものと比べていただければわかると思いますが、白い円柱型の建築物がとても似ています。
この近くには「みはらし緑地」という小さい公園があり、遮蔽物がありますが都心部か横浜かまで見えたと記憶しています。(※確認中)
また、雫と聖司が住む丘からは少し離れたところにあり、作品内でまだ陽の昇らない明け方の町を自転車で下ってまた登ってというシーンの距離感的にもふさわしいのではと考えます。
もう1つはよみうりランドです。
これに関してはソースが無いので確証を持って言えないのですが、私がモデルとなった場所である多摩地域から都心部を臨める場所を探していた時、何かの文章で「あの風景はよみうりランドにある高い塔からのものを参考にした」というジブリ関係者の発言らしき文章を読んだ記憶があります。
確証は持てませんが、私はこれには信憑性があると思っています。
実際、できるだけキレイに都心部を見ることができる場所を探した時、理想に近い場所は、聖蹟桜ヶ丘近辺ではなく、少し離れた稲城市や川崎市にあります。
よみうりランドからも見えますが、稲城市の城山公園にある「ファインタワー」という展望台です。(※ファインタワーは老朽化により立入禁止となっているようです)
ここから見える風景が最も作品に近いのではと思います。
地球屋とロータリーはさらに高いところにある架空の場所
作品では天沢聖司の祖父が営む雑貨屋である「地球屋」は丘の上のロータリーに面しています。
しかし、地球屋のおおよその場所は先ほどの画像の「耳丘」の縁にあり、一方ロータリーは丘を登った奥の方にあり、やはり位置関係が異なります。
現実では地球屋のあるとされる場所とロータリーは離れているのです。
もちろん、私が自分で述べたように、そこは作品制作の際に風景を組み合わせたと言ったほうが適切かもしれません。
しかし、私が実際に桜ヶ丘のロータリーに訪れて感じたことは、作品の中のロータリーと実際のロータリーでは雰囲気が全く違うということです。
作品では、地球屋は雫が坂を登っていった図書館の更に上にあります。
この「更に上」というのは位置的にもそうですが、またこれはあくまで僕の個人的な感覚ですが、下とは漂う空気の異なる「少し非現実な場所」ということです。
雫はバロンとの出会い、時計の修理など、時が止まったようなひと時を過ごします。
実際、修理した時計が動き出すことで、雫は本来の目的(父親へお弁当を届ける)を思い出します。
地球屋周辺は単なる街の一画ではではなく「ある時迷い込む場所」なのだと私は考えます。
猫に導かれ、または何かに思い悩む時ふと足が向いてたどり着く場所です。
地球屋の周囲には民家は描かれているものの、人は描かれておらず、どこかひっそりとした雰囲気があります。
雫もムーンについていき、ロータリーにやってきた時「丘の上にこんなところがあるなんて知らなかった」と言っています。
それに対し、モデルとなったとされるロータリーは非常に生活感があり、隔離された雰囲気はなく、バス停などもある開かれた「現実的な場所」です。
「ロータリー」という共通点があるので、作品の参考にならなかったとは言いませんが、私の実感としては全く別の場所なのです。
真ん中に植え込みの気があるという部分は似てますが広さも違います、私はむしろ、雰囲気だけで言えば、ロータリーの近くにある、浄水場前のバス停のほうが似ている気がします。
その場所がこの方のブログにありましたので見ていただければと思います。
『一週間フレンズ。』の舞台でもあります。
桜ヶ丘の階段と三叉路が登場したのを契機に聖蹟桜ヶ丘方面へ一週間フレンズ。の舞台探訪に行って来ました。聖蹟桜ヶ丘駅地区まず…
つまり、桜ヶ丘に実際にあるロータリーが作品のモデルであり、現在そこが「聖地」となっているようですが、そうと決めるのは早計ではないかと思います。
それは単に、地球屋とそれの位置関係がちがうというだけではなく、作品と現実のロータリーの雰囲気の違いはもちろん、「作品における地球屋があるロータリーの意味合い」と、それが醸し出すどこか静謐な空気が「現実には存在しない場所」としたほうが正しいと考えるのです。
作品内の地球屋とロータリーは、(少なくとも作品の前半は)丘の頂上ではなく、もっと高い、どこか日常とは少し離れた場所にあるんじゃないかと考えたいのです。
セリフにもあるように、まさに「空に浮いているみたい…」という日常と切り離された非現実的な架空の場所だと思うのです。
ですがもちろん、現実の桜ヶ丘のロータリーに行って、周辺を散策しながら作品の雰囲気を感じるという楽しみ方はいいと思います。
私も何度も行きましたし、また行きたいと思っています。
まとめ 個人的な想いと感想
『耳をすませば』は夢と希望の物語だと思います。
もちろん不安や悩みも描かれていますが、それを踏まえても若く、全体的に青臭い物語です。
しかし、それは青春の物語で、まさに宝石の原石のような作品です。
私も多くの人たちと同様に、恋や将来について悩みましたし、また最近は個人的な問題をずっと抱え続け、うつ病という病気にもなり、このブログのタイトルにもあるように、いわゆる社会のレールを「踏みはずし」てしまいました。
ですが、そのように悩んでいる間も時々聖蹟桜ヶ丘を訪れ、『耳をすませば』のモデルになった風景を眺めていると、元気をもらい、未来が少し開けたような気持ちになりました。
それは朝日を眺めていた雫と聖司の気持ちとも重なるのではないかと思っています。
作品の主人公の二人も希望だけではなく、行き先のわからない不安を抱えていたと思います。
私は先日行った近藤喜文展で見たのですが、『耳をすませば』の2人が自転車に乗ったポスターをぜひ見ていただきたいと思います。
二人の視線は同じ方向を向いているのではなく、特に雫はどこか違う、遠くを見ているように感じます。
それが不安な将来を暗示しているとは言いませんが、先行きの不確かな未来を想像し始めた若者の眼差しのようにも感じるのです。
私はこれまで何度も『耳をすませば』観ましたし、多摩にも足を運びました。
それはつらい日々の中でかすみ、忘れてしまった夢や希望をもう一度目の前に取り戻そうという作業だったような気がしています。
うつ病が回復してきた今、将来と言うにはもういい年齢になってしまいましたので、恥ずかしながらですが、もう一度そういった夢や希望をしっかりと見据えていきたいと強く思っています。
今度の放送(2019/01/11)でも物語を普通に楽しみつつも、そういった思いを抱えながら観ることになると思います。
そして観る人には、特に若い方にはぜひ観ていただいて、将来に希望を持ち悩みながら成長していく登場人物の姿を見て、これからの人生の糧にしていってほしいと、「耳すまファン」の一人として、そんなことを思っています。